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Lamb. 03

最原終一が姿を消して、数ヶ月が経過した。
驚くほど日常に変化はない。変わらずに蝉は鳴き続けるし、太陽は毎日のぼる。風が吹けば桶屋は儲かるし、世界的ピアニストも日本全国を駆け巡っている。

そう、何も変わらない。彼一人がいないところで、何も変わるはずがないのだ。個人に世界を変えるちからなどない。

ただ、そう。そう……、ただ、すこしだけ。
世界に彩りがなくなっただけ。




「ほんとにあれから会ってないんだ」

金色の髪をさらりと揺らし、彼女は目を丸くしてそう言った。頬を滑る髪を耳にかけ、手元のショートケーキをひとくち食べる。続けて、すっきりとした味わいの紅茶を飲み、おいしい~と破顔した。
キミこそ、と返すと、だって会ったら辛くなるもん、と、あっさりと返された。
そんなふうに言える強さが羨ましくもあり、そんなふうに強がるしかない悲しさに胸が痛くもなる。

「ひどい男だよねぇ。こんな上玉ふたりも弄んでさ」
「ほんとだよ!ちょっと……だいぶ……すっごく……顔がいいからって!」

そこかよ、と王馬が呆れ顔でツッコミを入れる。だが、王馬くんだってあの顔が大好きなくせに、と反論されると、肯定するしかない。
正直なところ、王馬が本気になれば、すぐにでも見つけられる。数秒と掛からないだろう。何しろあの男は、自分がどれだけ目立つ容姿をしているか、まったく自覚を持たないのだ。凡才であるとかたくなに信じ、それを譲らない、あの頑固さはいっそ厄介を通り越して迷惑である。
アイスティーの氷をストローでからから弄んでいる合間に、赤松は手元のケーキをぱくぱくと食べ続けている。上品な甘さのそれは、続けて食べていても胸やけを起こすことがない。初めて赤松をこの店に連れてきてから、ずっとこの店を指定され続けている所以でもある。

「まさかとは思ってたけど、まさかまさかだよ。誠意の見せ方を誤解してるんじゃないかな?」
「まあ、最原ちゃんだからねぇ」

ぷんぷん!と効果音が頭の上に見えるようだ。赤松の怒りに、王馬が苦笑して返す。同じ気持ちなので、否定をすることはない。
彼に至っては、ほんとうに、「たちがわるい」としか形容が出来ない。いろいろなことをひっくるめてぜんぶ、「たちがわるい」。

「王馬くんから会いに行かないの?」

普通なら聞きづらいであろうことを、赤松はあっさりと尋ねる。は、と笑った王馬が、首を横に振った。

「オレ、ゲームは勝ってこそ楽しめるんだよね」
「……キミたちってけっこうめんどくさいよね」

高校時代によく見た王馬の顔に、赤松がげんなりしてため息をつく。最後の紅茶を飲み干して、テーブルに二千円を置くと席を立った。

「そろそろ行かなくちゃ。次の公演が海外なんだ」
「あいかわらず飛び回ってるねー。ご活躍で何より」
「おかげさまでね」

離婚のニュースは何者かの手によって、さほど取り沙汰されることはなかった。
赤松は以前と変わらずに世界中に音楽を届けている。
彼の、嫉妬してやまなかった至上の演奏を、今もなお続けている。

「私は……やっぱり、ピアノから離れることは出来ないから」

そう言う赤松の顔は、少し寂しそうだった。逆光になっていて、王馬からはっきりと表情が読み取れたわけではなかったが。
次に顔をあげたときは、いつもの笑顔だった。じゃあまたね!と言い残し、颯爽と去っていく。人気者は忙しい。
氷が解け始め、ぬるくなってきたアイスティーを口へ運ぶ。
軽やかな足取りで遠ざかっていく赤松の背中を、しばしぼんやりと見つめていた。




何もしないのもつまらないので、当然のように監視は付けていた。
日本国内なら「監視」までは付けなかっただろうが、彼が行先に選んだのは、よりによって海外であった。赤松への対抗意識でもあったのだろうか。両親や叔父もよく行っていたので、自分も大丈夫だと高をくくっていたのかもしれない。まったく探偵のくせに読みが甘い。

今はロンドンのあたりにいるようだった。ホームズ気取りか。
英語に関しては申し分ないが、いかんせん生活能力が低すぎる。それもホームズ気取りか。

あまりにもハラハラするので監視をやめようとしたこともあったが、逆に四六時中気が散る始末だったので、結局のところ定期的に様子を見ている。まるで独り立ちを見守る母親の気分だ。そしてこの雛鳥は絶望的に、こと生活面において学習能力が低い。あるいは、学習する気がないと言い換えてもよい。一緒にいたときも、目を離せばすぐに携帯用非常食ばかりを食べていた。

ストローの先から水滴がこぼれ落ち、ストローの包み紙へと落ちる。
うにょ、と毛虫のように動くそれを、無機質な目で見つめていた王馬は、次の瞬間、ふっと腹に力を入れた。飛び上がるように椅子から立ち上がり、伝票を持つと、赤松の二千円とともにレジへ五千円を乱暴に叩きつけた。
釣りは要らない、などと、本気で言う日が来ようとは思わなかった。
雑踏を掻き分けて、「それ」を追う。追ってきたことに気づいたらしく、彼は歩みをゆるめた。

「……なにしてんの」

王馬は、時計のディスプレイに映し出された赤い点滅を、指で叩いて消す。
あまりにもつまらない問いをしてしまった、と自己嫌悪に陥る横で、彼は悪びれもせずに答えた。

「さんぽ、かな」
「はあ……?オレはモラトリアムにでも付き合わされてたわけ?」
「そうかもしれないね」

くすり、と妖艶に笑う彼は、別れたあの初夏の日から変わっていない。日焼けもしていなければ、太ってもおらず、痩せてもいない。化け物か、と思う。
ほんとうに、人をたぶらかす妖怪のたぐいかもしれない。

「赤松ちゃんはもう行っちゃったよ」
「うん、知ってる。背中だけ見えたから」

そんな前からいたのかと、王馬が舌打ちをする。海外にいるという先入観が、王馬の監視の目を油断させた。
苦々しい。そんな王馬の心中を察した探偵は、取り繕うように言葉を紡いだ。

「おなかすいてる?どこか入る?」
「……すいてないから、家に行こう」
「家?」

どこの?と、首をかしげる。最原と赤松との家は、とっくに売却してしまっていた。
半眼になった王馬が、ふん、と鼻を鳴らす。

「もちろん、オレの、だよ」




初めて足を踏み入れる王馬の家に、最原は、初めて東京に来たおのぼりさんのごとく目を輝かせていた。
玄関先でワアと声を上げ、靴を脱いで廊下を歩いてはワアワアと言い、扉を開けてリビングに入るとウワアアと叫んだ。

「……何がそんなにおもしろいのさ」

キミんちだって似たようなものだったろ、と呆れ顔で尋ねると、王馬くんの家だと思うだけで楽しい、と返された。胸にせりあがる感情に、落ち着け、と王馬は自身に言い聞かせる。油断も隙も無い。
王馬の家は、とあるタワーマンションの高層階にあった。実のところ居住地は一つだけではないのだが、いちばん出入りしている家に変わりはない。
ひとまずコーヒーでも入れるか、とキッチンへ向かおうとした王馬の手を、最原が掴んだ。

「さいしょに、はなしを聞いてくれる?」

と、お願いされては、言うことを聞くしかない。
キッチンへ向かうことはあきらめて、リビングのソファへと腰をおろした。横へ最原も腰掛ける。
いろいろと考えたんだ、と彼はすぐさま切り出した。しゃべりたくてたまらない、と言った様子だった。もともと別に寡黙ではないが、興奮していると言い換えてもいい最原に、王馬はいささか警戒心を強くする。
それはまるで、謎を解き終わり、解明した内容を語っているときの彼に似ていた。

「離れてみて、改めて、考えてみたんだ。楓にとってのピアノは、僕にとっては何にあたるんだろうって」

最原の横顔は、新しいおもちゃを前にした子どものようだった。その顔ですぐに、それは見つかったのだ、とわかった。
王馬は、微笑む余裕もなく、ただ黙って聞いていた。

「楓は、ピアノのことを、離れられないものだと言った。自分を高めてくれるものだとも、楽しませてくれるものだとも、悩ませてくるものだとも。人生の苦楽をともにするものであり、欠かせないものだと」

それは夫婦のようだ、と、言うときだけ、最原は、少し寂しそうだった。

「それで?最原ちゃんにとってのそれが見つかったって話?」
「……うん、そう。よくわかったね?」

わからいでか、舌打ちを我慢しきれずに王馬が吐き捨てる。それをのこのこと報告しに来た彼の気が知れない。数ヶ月も放置し、そのあいだ何の連絡もしてこなかったくせに、今さらいったい何の用がある?
王馬の悪態に、しかし謎解きの説明に夢中の最原は気が付かない。言葉を続ける。

「考えたんだ。改めて、自分自身を振り返って、探していった。いや、実際は探す手間なんてなく、すぐ見つかった。なんで気づかなかったんだろうって、不思議なくらいに」

僕の目が節穴だったんだろう、と最原が苦笑する。
ソファに置いていた手をふいに握られ、王馬がびくりと反応する。めずらしい様子に、最原の方まで驚いてしまった。
自身の状態に気づいた王馬が、すぐさま取り繕う。なあに、と、握られた手をゆっくりほどいた。
そこで最原は初めて、自分が、結論から語らなければならかったことに気が付いた。

「キミのことだよ」

しばし沈黙が落ちる。
ゆっくりと顔を上げた王馬は、何を言っているのかわからない、という顔をしていた。
やはり結論だけではダメか、と、最原は解説を続けることにした。

「僕にとってのピアノ、何かなって考えたんだ。離れられないもの。高めてくれるもの。楽しませてくれるもの。時々悩ませてくるもの。……欠かせないもの」

言葉を紡いでいるあいだ、最原の目はじっと王馬を見つめていた。言われるたび、だんだんと顔が熱くなるのを自覚する。なんとか平静を装おうとしても、勝手に体温が上昇するのは止められなかった。
耐えきれず、ぐるりと最原に背を向ける。手の甲で自身の頬に触れると、高熱が出ているかのように熱かった。

「高校の時に出会ってから、ずっと、頭の片隅にいつもキミがいたんだ。大人になって再会してからは、片隅どころか、だいたい真ん中にいつもキミがいた。もちろん、ほかのことを考える日くらいあったけど、ふとした拍子に思い出すのは、いつもキミだった。おいしいお菓子を食べたとき、キミとも食べたいと思ったし、美しい音楽を聴いたときは、キミとも聴きたいと思った。おもしろい映画があったらキミと感想を言い合いたいと思ったし、難しいニュースがあったらキミの意見が聞きたいと思った。たいへんな仕事が……」
「も、もういい。最原ちゃんもういい、わかったから。それ以上は」

もういい……、と、王馬が最原の口を手のひらで押さえた。
放っておけば、まだまだパターンが出てきそうだった最原は、ぱちくりとまばたきをする。言い足りないんだけどな、と手のひらの向こうで音なく最原が言うと、王馬の手にさらに力が入った。
やっぱりコーヒー淹れてくる、と王馬が席を立つ。時間稼ぎであるとわかっていたが、今度は最原は止めなかった。

実は最原にとっても、王馬のこの反応は予想外だった。てっきり、やっぱりね~!なんて、いつもの調子で返されるものと思っていたのだ。
まさかあんなに、うぶ(と、形容してよいのだろうか)な反応をされるとは。
やはり彼はびっくり箱のようだ、と考える。

しゅんしゅん、と、ケトルがお湯を沸かしている音がする。
カウンターキッチンだが、うつむいている王馬の顔は、よく見えない。

静寂のとばりが落ちる。
差し込む夕日が目にまぶしい。

ぱち、とケトルのスイッチがあがり、お湯が出来たことを知らせる。
王馬が顔をあげたので、その顔を見ることが出来た。最原はじっとそれを見つめていた。

「……穴が開きそうなんだけど、最原ちゃん」

調子が戻らないのか、照れた顔を隠せていない王馬が、ぼそりとつぶやく。
スカーフは、家に戻った時に外していた。あらわになっている白い首筋が、少し赤く染まっている。
最原もソファを立った。キッチンに居る王馬へ近づいていき、その首筋に口づける。

「!?」
「ごめん、なんか、急に」

いてもたってもいられなくて、と、言葉では謝っているが、あまり謝罪の意を感じられない声で、最原が言う。
首筋を手で押さえた王馬は、二の句を告げずに彼を見る。いや、実際は一の句すら告げられていないが。

「なに!?外国かぶれしたの!?」
「あ、やっぱり、僕がどこにいるか知ってたんだ」

ようやくツッコミを入れられた王馬の言葉を、最原が無視する。

「ちょっともうほんと……なんなの。おかしくなっちゃったの?」
「……そうかもしれない」

最原自身も驚くほど、最原は、王馬に会えて嬉しいらしい。
感情が制御できていない、と感じる。それは、連絡先を交換した後、すぐさまメッセージを送ってしまったときと似ている。
脳を通さずに体が動く。ただ、ひとつだけ、強く感じる衝動は、

「……欲しい」




二人してベッドに倒れ込む。服を脱ぐ手間すら惜しい。
キスをやめずに、お互いの服を脱がしていく。口の間から唾液がこぼれるのも気にしない。
お互いの荒い息が体にかかる。その熱さがさらに衝動を高めていく。

指が震える。喉が鳴る。背中に回る腕が心地よい。絡む舌が痺れるほどに気持ちがいい。
互いの存在を確かめ合うように、強く、抱きしめ合う。

たかだか数ヶ月、されど数ヶ月。
今まで離れていたどの数ヶ月よりも長かった。もう一度、こんな日が来るとは、信じられなかったほどに。

「……っ、は、あ、……も、もう、」
「……?」

絶え絶えの息の間、最原が何かを訴える。いつもなら察しの良い王馬だが、今回ばかりは読み取れない。久しぶりだからゆっくりにしろということか、鈍く動く王馬の脳みそを、次の言葉が貫いた。

「いれて」

おそらく、かつてないほど、準備をおろそかにしてしまった。
平時の王馬が、今の王馬を見たら怒り狂うに違いない。だが、この状態で、この願いを叶えない男になど、いったい何の価値があろう?
それでもなるべくゆっくりと、王馬が自身をあてがう。背に回った腕が強く引き寄せてくるので、一気に入ってしまわないよう注意したが、逆につらい。はやく、はやく、耳元で最原が切なげに繰り返す。ち、と王馬が舌を打った。

「知らないからな……!」
「んああっ!」

ぐっ、と一息に押し進める。ひときわ高い嬌声があがり、最原の足の指がぴんと伸びた。中が気持ちよさそうに脈打つ。その感触に、王馬も長く耐えられそうにない。
一度入れてしまえば、動くことを我慢するのは難しかった。何しろ、もう二度とないと思っていたし、何しろ、身も心も自分のものであるとわかって初めての行為なので。

「、覚悟のうえ、なんだよね?」
「……もちろん……」

手加減が出来ない、と問う王馬に、最原が微笑んで答える。
そこから先は、二人ともあまり記憶にない。

最初のシーン、飛行機と青空を背にして微笑む最原ちゃんの姿と、赤松ちゃんから略奪する王馬くんだけが思い浮かんでいて、ずっと温めていたネタでした。

Twitterでほそぼそと更新してました。

書けてよかったです。

​後日談を書きたかったけど、いったん自分の中できれいに終わってしまっているので、なにか思いついたら、かな…というかんじ。

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